大分の歴史 二階崩れの変
- 更新日:2022年03月24日
- カテゴリ:歴史
大分の歴史 二階崩れの変
キリシタン大名で有名な 大友 宗麟(そうりん)
1550年、彼が大友氏の當(dāng)主となる『お家騒動』が 起きました。
大友 宗麟につきましては、
歴史の初ブログで、2009年 7月 6日 投稿しております。
今回のタイトルである~お家騒動が起きた現(xiàn)場を訪ねてみました。

大分市上野丘西357( ロイヤルシティ別府灣杵築リゾートから約 54km )
現(xiàn)地は『丘』の地名どうり、広くなだらかな丘陵北部に在ります。
當(dāng)時は、上原館( うえのはる やかた )と、呼ばれてたそうです。
現(xiàn)在は土塁の一部のみが 殘っていて、天満社が祀られています。
記録では、東西130m 南北156mの敷地だそうです。
しかも、高さ 2m~4mの土塁で四方を囲っていた、との事。
もう館を超えた 限りなく お城



土塁に掛かる石段を上ると、
石碑には 西山城跡(上原館の別稱)と彫られていました。

天満社です。

平家武將が祀神の 生目社も祀られていました。

さて、お家騒動の お話 です。
大友氏は、鎌倉幕府の御家人から守護(hù)~戦國大名になった一族です。
第20代當(dāng)主の義鑑(よしあき)は、
嫡男:義鎮(zhèn)(よししげ→後の宗麟)を次期當(dāng)主に決めていましたが、
側(cè)室の子:塩市丸に家督を継がせる為、義鎮(zhèn)の廃嫡を決斷します。
なんと、義鎮(zhèn)を擁立する家臣らを 粛正し始めたのです。
これに対し、
義鎮(zhèn)派の家臣らが夜襲を掛けて、義鑑親子を殺害したのでした。
1550年 2月 10日の夜の事です。
義鑑親子が住む館が、當(dāng)時は珍しい二階建てであったので、
『 二階崩れの変 』と、呼ばれるように なりました。
義鎮(zhèn)は、この事変には関わっていない事になっていますが、
とても、あやしい です。
しかし、事後処理した 戸次 鑑連(べっき あきつら)の活躍で、
九州六國を支配する戦國大名と成りました。
戸次 鑑連=義鑑~義鎮(zhèn) 當(dāng)主2代にわたって仕えた
義鎮(zhèn)に合わせて出家し 麟伯軒 道雪と名乗る
後世では武將:立花 道雪 の方が有名。
大友 義鎮(zhèn)=大友氏第21代當(dāng)主(1550年 年齢 20歳)
出家して 休庵宗麟と名乗る(1562年 年齢 32歳)
カトリック洗禮を受ける(1578年 年齢 48歳)

JR大分駅前に建つ 宗麟公 像( ロイヤルシティ別府灣杵築リゾートから約 50km )
宗麟公の立像が見下ろす位置には、
16世紀(jì)のオランダの天文學(xué)者:プランシウスが作成した
世界図が描かれています。

そして、世界図の橫には、
宗麟公に 世界を説明する ザビエル の像が建っています。

文責(zé):チリメン「間違ってたらゴメンなさい」
掲載寫真は、全て 2022年 3月 16日に撮影