奈良時代 大隅國【噌󠄀の國】
- 更新日:2018年08月12日
- カテゴリ:歴史
奈良時代 清麻呂さまが 大隅國へ配流された 謎 【 噌󠄀 の 國 】
皇族の存続を守った 奈良時代の官僚:和気 清麻呂さまシリーズの延長です。
清麻呂さまが、大隅に配流された謎について、歴史調査を継続しています。
前編投稿で、『豊前の秦氏一族が大隅へ移住?』と予告しておりましたが、
勝手ながら今回はパスさせて頂き、次回投稿にスライド変更申し上げます。
秦氏一族の調査前に、
先住の『
隼人
族』の調査が、配流解明の順序かと思い直した次第です。
隼人への思い入れが炸裂するチリメン報告に、暫く お付き合い下さいませ。
チリメンの妄想 < 噌󠄀 の 國 >
その昔、九州の南部に 噌󠄀(そ)と呼ばれた國が在ったと 想像して下さい。
噌󠄀の國土は、痩せたシラス土壌で覆われ、稲作に不適で農耕が困難です。
人々は生き殘る為、集落を小さく分散し農地を共有する共生を選びました。

縄文時代の噌󠄀の集落イメージ
霧島市國分上野原縄文の森 上野原縄文遺跡(2017年 7月撮影)
ロイヤルシティ霧島妙見臺から 約 22km
ロイヤルシティ別府灣杵築リゾートから約 350km
噌󠄀の人々が平穏な共同生活をしていると、
ヤマトと云う恐ろしい武力集団が現れて、
「わてら、ごっつ強よ おます。おとろしかったら 律令稅払ろてんか
」
と、脅して來ます。
助け合う噌󠄀の人々にとって、ヤマト稅の取り立ては厳しく大きな負擔です。
稅に窮した集落が各地で暴動を起こしますが、全てヤマトが制圧しました。
ヤマトは、課稅と治安強化の為に、噌󠄀の國を三分割して國府を設置します。
各國府に國司が來て律令を強制するので、噌󠄀の互助社會は崩壊寸前です。
つ い に 、
不満が爆発した噌󠄀の人々が、反ヤマトに立ち上がり、
大隅國府を焼き討ちする と云う 大きな反亂を起こしました。
すぐさま ヤマトは、九州の北部で15,000余の兵を集めて南下し、
2方向から日向と大隅に攻め入ります。
かたや 噌󠄀の人々は、日向と大隅に在った 七つの城で迎え撃ち、
ヤマトの攻撃に激しく抵抗しました。
し か し、 一年半にも及んぶ攻防は、
ヤマトの武力が勝り、反亂は完全に制圧されて終いました。

噌󠄀の山城のひとつ 姫城の山城跡
霧島市隼人町姫城~山全體が砦 (2018年 7月撮影)
ロイヤルシティ霧島妙見臺から 約 8km
ロイヤルシティ別府灣杵築リゾートから約 341km
大隅國府は、姫城から1.5km南のJR國分駅近くの國分府中町に在ったとされています。
噌󠄀 の 神體山

尾牟禮山(おむれいやま) と 止上(とがみ)神社
霧島市國分重久町 (2017年 6月撮影)
ロイヤルシティ霧島妙見臺から 約 8.6km
ロイヤルシティ別府灣杵築リゾートから約 342km
鳥居後方の 尾牟禮山が、噌󠄀の人々が崇拝した ご神體山だそうです。
隼人の亂のとき、この地も激戦地だったと、地元の方から聞きました。
社伝によれば、1600年頃まで「王の御幸」祭が行われていたらしい。
<チリメン 考察>
反ヤマトの亂に加擔した噌󠄀の人は、民衆を含んで5,000人程とされ、
戦沒や捕虜となった噌󠄀の人は、1,400人を超えたと伝えられています。
▲奈良時代の日本の人口が、600萬人前後とも考えられていますので、
現在の人口から逆算すると、1,400人は 凡そ 29,000人に匹敵します。

隼人塚
霧島市隼人町見次 (2018年 4月撮影)
ロイヤルシティ霧島妙見臺から 約 1 0km
ロイヤルシティ別府灣杵築リゾートから約 338km
突然ですが、立場をヤマト王権に変えて
チリメンの妄想 噌󠄀 改め < 日 向 の 國 >
ここから先は、「噌󠄀の人」を『隼人』に置き換えて お読み下さい。
その昔、九州の南部に 噌󠄀(そ)と呼ばれた國が在ったと想像して下さい。
噌󠄀の國は山野が多く、稲作や農耕に適さず、稅(調)額は高が知れていた。
噌󠄀の人は、ヤマトに従わず、稅は納めず、直ぐ反発して暴動を起こす。
ヤマトにとって労多く、扱いにくい先住の噌󠄀の人が住む遠い國。
でも、 ヤマトは、 絶対、 王権下に従屬させたい、 欲しい。
理由は、大陸と直接交流が出來る海路が大至急、欲しい から。
400年以上続いた半島交流や半島経由の大陸交易が難しくなってきたので~
西暦 562年 任那日本府の滅亡
西暦 663年 白村江の戦いで大敗 唐?新羅軍 vs 倭?百済軍
半島の交易拠點を失ったヤマト王権は考えました。
九州の北部海路を修復するよりも、九州の南部海路を手中にした方が早い。
大陸海路を知る噌󠄀の海人を配下にすれば、大陸人脈も利用出來て安上がり。
ふ ふ ふ 、 ほ ほ ほ 。
ヤマト王権は、
半島からの九州防衛には、稅の代わりに全國から徴兵した防人を置いて、
噌󠄀の國に対して、次々と布石を打ちます。
ヤマト律令の指導係として、九州北部の豊前から180人を噌󠄀に派遣させる
西暦 699年 大宰府直轄の軍事拠點の城を、噌󠄀の要衝地に築城する
西暦 702年 律令の行政執行で、 噌󠄀の國から 唱更(薩摩)國を分割する
西暦 713年 同じく強制執行で、 噌󠄀の國から更に大隅國を分割する
噌󠄀を三國に分けて、 九州北部から移住者を入植させる
西暦 720年 大隅の隼人の亂に対して、鎮圧軍を直ぐに派兵する
鎮圧軍の総大將:征隼人大將軍は、歌人で有名な 大伴 旅人(たびと)
10,000人を超える主力軍は、大宰府を南下して、大隅の西から攻めた。
もうひとつ豊前を出発した別働軍は、日向と大隅を東から攻め入った。
この東ルート 5,400兵のセンターを務めたのが、宇佐八幡の義勇兵であった。
豊前宇佐の義勇兵は、戦勝祈願を念じた八幡神を神輿に乗せて出兵した。
武功により、地方神だった八幡(やわた)の神が全國に知れ渡り、
神仏習合して仏教読みの八幡(ハチマン)と稱し、『八幡大菩薩』と成る。

鹿児島神宮 (正八幡宮)
霧島市隼人町內 (2017年 10月撮影)
ロイヤルシティ霧島妙見臺から 約 8km
ロイヤルシティ別府灣杵築リゾートから約 336km
大隅國 鹿児島郡に在った大隅國の一之宮社
ヤマト王権は、噌󠄀の人を律令で公民化させる同化の柔軟策として、
【古事記や日本書紀】
☆ 隼人征伐の史実は、噌󠄀の『熊襲征伐』の神話で伝承した
☆ ヤマト王権の地縁血縁を強調した 霧島の高千穂峰の『天孫降臨』
海幸彥と山幸彥の兄弟喧嘩
神武天皇の誕生と「東征」
☆ 噌󠄀の國を、景行天皇の巡幸により、『日向(ひむか)』と國名を改めた
☆ 熊襲 武を暗殺した 日本 武尊は、『武』の名を頂戴して襲名した
天孫降臨
霧島高千穂リゾートランドから見た 高千穂峰(たかちほのみね)
霧島市霧島大窪 = 舊:姶良郡 東曾村 (2015年 10月撮影)
ロイヤルシティ別府灣杵築リゾートから約 266km
秋の日沒山頂に、翼を広げた鷲形の日が差し込んで、天孫の降臨が再び始まる??のかな![]()

熊襲穴
霧島市隼人町嘉例川 (2017年 7月撮影)
ロイヤルシティ霧島妙見臺から 約 8.5km
ロイヤルシティ別府灣杵築リゾートから約 342km
神話で、熊襲が、ヤマトに抵抗して籠った洞窟穴。
日本 武尊 が女裝して洞窟に入り、熊襲 武 を討ったとされる。
( ヤマト タケル ノミコト )
【ヤマトの國策優遇】
☆ 噌󠄀の國で従屬が早かった地域の隼人には、京の警備など職を與えた
☆ 隼人の亂のあと、上京朝貢した隼人の族長に、官位を授け祿も與えた
☆ 豊前から入植させて、農業改革に取り組ませ、ヤマト律令の浸透を図った
<チリメン 考察>???『熊襲』
噌󠄀の人が勇猛果敢に最後まで戦うので、ヤマトの兵は非常に畏れた。
恐ろしいほど強い畏敬の『熊』を付けて『噌󠄀』の人を稱えました。
↓ ↓
くま そ
※熊本の『熊』も同じ意味で、1607年までは 隈本 と呼ばれていたり??
蟬の中でもクマゼミは、體が大きく、恐ろしく力が強い??ですよ?ね

山神橋 バス停
宮崎県 都城市吉之元町 (2018年 1月撮影)
ロイヤルシティ別府灣杵築リゾートから約 302km
噌󠄀の國で昔、海幸彥と山幸彥の兄弟喧嘩の神話を連想させるバス停名ですね。
進行方向が海幸彥が住んでた?霧島市內へ、反対が山幸彥が住んでた?都城市街。
大亂で荒廃した大隅國に、入植してきた 九州北部:豊前の秦氏一族~
反ヤマトの先住民が居る大隅國に配流された 元官僚の 和気 清麻呂さま??
次回の投稿こそ、
秦氏と清麻呂さまとの関係について、歴史調査を してみまする~
文責:チリメン
「間違ってたら、ごめんなさい」

都城市の西にそびえる 高千穂峰 「冠雪が神々しい!」
宮崎県 都城市金田町あたり (2018年 1月撮影)
ロイヤルシティ別府灣杵築リゾートから約 280km








