大分の歴史★キリシタン編★その一?大友 宗麟
- 更新日:2009年07月06日
- カテゴリ:歴史
大友 宗麟(おおとも そうりん) 1530年生~1587年沒(méi)
九州の戦國(guó)大名で、キリシタン大名としても有名です。
今回のテーマ 『キリシタン』では、彼と彼に関わった人物をご紹介します。
大友 宗麟のご紹介
宗麟とは、出家した名前で、休庵 宗麟が正式名稱です。
出家前は、義鎮(zhèn)(よししげ)と言います。
義鎮(zhèn)は20歳のとき、『二階崩れの変』で、大友21代當(dāng)主となります。
翌年にはポルトガル船を豊後に入港させました。
すぐに、フランシスコ?ザビエルと面會(huì)して、領(lǐng)內(nèi)での布教を許します。
彼は、キリスト教よりも南蠻貿(mào)易のメリットに興味があったといわれます。
最新兵器や鉄砲に使う火薬を、敵対大名より多く仕入れたかったのです。
布教を許さない敵対大名には武器を売るな、と書狀も殘っています。
27歳のとき、宣教士ルイス?アルメイダとも面談しています。
義鎮(zhèn)は、アルメイダの要請(qǐng)で府內(nèi)(現(xiàn):大分市)に土地を與えました。
アルメイダは、日本初の孤児院やホスピタルを建てました。すべて無(wú)料です。
32歳で出家して、宗麟と名乗ります。
42歳のとき、九州六國(guó)を治める大名となりました。
六國(guó)=豊前?豊後?筑前?筑後?肥後?日向(大分?福岡?熊本?宮崎の各県)
46歳で隠居し、支城のひとつ丹生島城(現(xiàn):臼杵城)に居城します。
48歳のとき、屬領(lǐng)の日向大名:伊東 義佑が島津軍に敗れ亡命してきました。
亡命してきた伊東 義佑の孫:義益を遣歐少年使節(jié)団員として送ります。
伊東 義益は、のちに伊東 マンショとして、ヨーロッパから帰國(guó)します。
若いときは亂暴者であった宗麟は、隠居して大人しくなったと言われます。
キリスト教に傾倒していき、キリシタン王國(guó)を創(chuàng)る野望が芽生えました。
彼は、48歳で洗禮を受けます。洗禮名は、ドン?フランシスコ。
洗禮後、王國(guó)をつくる為に、島津軍が占領(lǐng)する日向の奪回を始めます。
宗麟軍はキリスト教を唯一とするため、神社仏閣の破壊活動(dòng)を始めました。
これには、仏教徒の方が數(shù)が多い宗麟軍內(nèi)に、動(dòng)揺が広がります。
決戦の耳川の戦いでは、宗麟自身は遠(yuǎn)隔地で禮拝中だったともいいます。
大敗した宗麟軍は撤退。勢(shì)いに乗る島津軍が豊後領(lǐng)に大侵攻してきました。
自力排除できない宗麟は、太閤:秀吉に謁見し、島津討伐を要請(qǐng)します。
秀吉に臣従する道を選んだ宗麟は、このとき56歳です。
秀吉の九州討伐の成功で、大友家には豊後一國(guó)が安堵されます。
秀吉は、宗麟にも日向國(guó)の安堵を打診しますが、宗麟は辭退します。
宗麟には、キリシタン王國(guó)建設(shè)の野望や體力が殘っていませんでした。
宗麟が沒(méi)した1587年に、秀吉は滯在の九州でバテレン追放令を出します。
宗麟が夢(mèng)見たキリシタン王國(guó)
宗麟は、夢(mèng)の王國(guó)を『ムシカ』と名づけました。
ムシカとは、スペイン語(yǔ)で「音楽」を意味するそうです。
教會(huì)の賛美歌や南蠻人が楽器演奏する音楽に歓心を懐いていたからです。
彼は、西洋音楽が鳴り響く理想のキリシタン王國(guó)を創(chuàng)りたかったようです。
ムシカの首都は、宮崎県延岡市無(wú)鹿町あたりと言われています。
延岡港にも近く、南蠻船の入港も配慮していたと思われます。
ムシカ建國(guó)が出來(lái)ていれば、正真正銘のキリシタン大名でしたが??????
宗麟の當(dāng)主時(shí)代では、豊後領(lǐng)內(nèi)での王國(guó)建設(shè)は出來(lái)なかったと思います。
家臣の多くは仏教徒で、キリスト教を嫌っていたからです。
他國(guó)の日向なら、一からの出直しで王國(guó)が出來(lái)やすいと考えたんでしょう。
宗麟の布教保護(hù)により、豊後領(lǐng)內(nèi)のカトリック信者は増えました。
當(dāng)時(shí)で、その數(shù)が3000~5000人とも言われています。
のちには、國(guó)東出身のペデロ?岐部も誕生します。
宗麟の外來(lái)文化を採(cǎi)り入れた功績(jī)は、
新しいものが好きで、外來(lái)者をもてなす大分の県民性として殘りました。
文責(zé):チリメン「間違ってたらゴメンナサイ」
(寫真撮影日:2009年 6月22日)