別府つげ工蕓


文化?歴史
ロイヤルシティ別府灣杵築リゾート/2025.08.29

日本有數の溫泉地、大分県別府市。別府が観光地として賑わうようになったのは、別府港(當時は楠港)が整備された明治初期まで遡り、溫泉地として大きく発展していったのは、意外にも明治後期からだといいます。『観光地 別府』が発展したのは、別府港開港から2年後の1873年(明治6年)に蒸気船が大阪?別府間を定期就航するようになったことが契機。その頃、別府の特産品として人気を博したのが、つげ細工です。港近くの商店街には、當時、県下一のおしゃれの店と謳われた小間物屋があり、そこでは日本髪を結うためのつげ櫛も取り扱われ、多くのつげ細工職人がこの店で腕を磨きました。


(寫真左)昭和初期建築の長屋を改裝した工房兼店舗
(寫真右)流線形のレイアウトが印象的な店舗內観。一角には彫り物の工程作業を行う作業場も
この店で修業を積んだつげ細工職人のひとり、安藤一平氏が創業したのが『別府つげ工蕓』です。1919年(大正8年)に創業後、しばらくはつげ櫛やかんざしを中心に手がけていましたが、和裝から洋裝へ、さらには大量生産?大量消費へと時代が移り変わると、ブローチや髪飾り、箸置きや菓子楊枝などの雑貨まで幅広く展開しました。年號は平成、そして令和となり再び、髪に特化したつげ製品づくりに原點回帰。つげ櫛の良さを現代的にアレンジした『つげブラシ』に的を絞り、製作を始めました。時代は変わっても『彫刻』や『透かし彫り』など、初代から受け継がれるつげ細工特有の技術を駆使。一本一本の質にこだわる手仕事を続けています。


(寫真左)つげブラシづくりの中で、いちばん好きなのは歯を挿す工程と語る安藤賀子(よしこ)さん。「いろんな職人が手を加えてきた集大成の場面。最後の瞬間まで大切に丁寧に仕上げます」
(寫真右)「私が嫁いできた頃は、髪留めやブローチが流行っていました」と語る安藤恵津子さん。「昔から分業制で、作業としては同じですけど、『もう少しこうしたら……』と考えながらやっているから飽きることはなかったですね」
直徑約20cmの幹が育つまで40~50年かかるといわれるつげ。成長の遅さは、『木のダイヤモンド』と呼ばれるほど硬くて粘り強い木質を育みます。繊細な加工をしても割れが少ないことから、昔から櫛だけでなく將棋の駒にも使われてきました。別府つげ工蕓では、國産つげの中でも最上種の鹿児島県産『さつまつげ』をブラシの歯に採用。髪にブラシを通すと、頭皮を優しくマッサージしてくれるような心地よい感觸を味わえます。髪質や髪量、使い心地に合わせて選べる3種類のブラシがありますが、歯の太さは一緒。歯の高さや向き、歯と歯の間隔が変わるだけで、髪どおりや頭皮の感觸も一変するから不思議です。




(寫真左上)南米産の木材、カステロにつけた下書きの上を、電動ノコギリで柄の形に削る
(寫真左下)柄に歯を差しこむ穴を開けた後、研磨機で磨きあげる
(寫真右上)目と手の感覚を頼りに、歯に磨きをかける
(寫真右下)歯の傷の有無や形の歪み、色味のバランスなど一本一本見極めながら差し込む
別府つげ工蕓では、水が滴る生木のつげを皮剝きし、乾燥させるところから作業を開始。工房に在籍する6人の職人が丸太を板狀に、さらにヒゴ狀に細く裁斷して、最終的に磨きをかけて歯に仕立てていきます。柄の部分はリコーダーなどにも使われる南米産の木材、カステロを採用。裁斷、加工、形成と、機械を使って行われる作業を見ていると、どの工程も迷いのない動きに見えますが、目で確認できない木の中の狀態を手の感覚で探りながら行われるという、実に繊細な作業の連続です。
完成したブラシの歯。手が覚え込んだ感覚を頼りに、一定の丸み、太さ、長さの歯に削っていったもの
歯を差し込む工程に入ると、いよいよ終盤。色味を見ながら一本一本手で差し込み、萬力で圧著後、仕上げに熊本県玉名産の椿油に潛らせてやっと、一本のつげブラシが完成します。つげ櫛と同じく、つげブラシも一生ものです。経年変化も、つげ本來の色味や使う人の髪質、使い方によって人それぞれ。歯が欠けても修理に出して新しい歯に入れ直せば、そこだけ若い色に。使うほどに『この世に一本だけ』のつげブラシとなり、愛著もひとしおです。現在、つげ細工を擔う工房はここ「別府つげ工蕓」を含め別府でわずか4軒。安藤家の家紋「下がり藤」と、つげの葉をアレンジしたロゴマークに、継承の心が刻まれます。


(寫真左)つげブラシは、頭皮マッサージにも効果の高いアイテム。付き添いの男性客が好んで購入されるシーンもよく見られるとか
(寫真右)柄の部分には、伝統技術を用いた彫刻が可能
![別府つげ工蕓[現地から約26.3km~26.8km]](images/article22/img13.png)