茨城大學(xué)五浦美術(shù)文化研究所/天心遺跡


文化?歴史
南那須?大金臺(tái)林間住宅地/2024.08.30

茨城県の北東部、海岸沿いに広がる北茨城市には、太平洋の荒波に浸食されてできたリアス海岸が続いています。中でも、5つの入り江が連なることから五浦(いづら)海岸とよばれる海岸は、不思議な形の巖礁が突出し、そのそばを高さ約50mの斷崖絶壁が続く獨(dú)特の景観です。明治?大正期の日本の美術(shù)活動(dòng)をけん引し、のちに日本の文化や東洋の思想を西洋に伝えた思想家 岡倉(cāng)天心は、日本美術(shù)の近代化を目指す途上で東京を去り、1903年(明治36年)にこの地にたどり著きました。さまざまな奇勝が織りなす風(fēng)景を一目で気に入り、移住を決意。彼を慕った橫山大観、下村観山、菱田春草、木村武山も移り住み、日本の近代美術(shù)史に大きな足跡を殘しました。
松林の中で、左右に延びる長(zhǎng)屋門(mén)。一歩入ると飛び石を配した道が茶室へ誘う
天心の遺族によって受け継がれていた五浦の邸宅は、1955年(昭和30年)から、茨城大學(xué)五浦美術(shù)文化研究所(當(dāng)初の名稱は五浦美術(shù)研究所)によって管理され、情報(bào)発信が行われています。天心邸と長(zhǎng)屋門(mén)、小さな岬に建てた六角形の東屋「六角堂(天心は観瀾亭(かんらんてい)と名付けた)」は登録文化財(cái)として認(rèn)定。使いながら保存する登録文化財(cái)の趣旨通り、入り口の長(zhǎng)屋門(mén)は、天心が住んでいた頃と同じ役割の管理室と受付として機(jī)能しており、素樸な造りの屋根からも往時(shí)の面影が感じられます。(東日本大震災(zāi)の影響により、現(xiàn)在は六角堂が登録文化財(cái)の指定から外れています)


1963年(昭和38年)に建てられた天心記念館。館內(nèi)には「五浦釣人像」のほかにも平櫛田中の作品を展示
構(gòu)內(nèi)にある「天心記念館」は、彫刻家 平櫛田中から木彫像『五浦釣人像』を寄贈(zèng)されたのを機(jī)に建設(shè)されました。釣り好きの天心をイメージして寫(xiě)した巨大な木彫りの像は圧巻。ほかにも館內(nèi)には、天心がヨットと和船を融合し設(shè)計(jì)した和洋折衷の釣舟『竜王丸』なども展示。記念館の隣には、太平洋戦爭(zhēng)中、米政府に日本の文化財(cái)保護(hù)を進(jìn)言したとされる東洋美術(shù)研究家ラングドン?ウォーナー博士の胸像もあり、天心に師事したゆかりの人々の功績(jī)を稱えています。
法隆寺夢(mèng)殿を模した覆堂に守られるラングドン?ウォーナー像
五浦に移住した頃の天心は、冬の間はボストン美術(shù)館で、中國(guó)、インド、日本の美術(shù)品収集と東洋美術(shù)を歐米に紹介する活動(dòng)に勤しみ、夏には五浦に戻り、釣りや読書(shū)、六角堂での瞑想などに興じ、心身をリフレッシュしていました。太平洋を見(jiàn)晴らす場(chǎng)所に建てられた住まい「天心邸」は、天心自ら設(shè)計(jì)し、料亭の古材を活用して建てられたリサイクル建築。庭には、ボストンから持ち帰った芝生の種をまいたといいます。


1905年(明治38年)築の天心邸は通常の建物より細(xì)い柱が特徴。天心が暮らしていた頃より半分の規(guī)模で現(xiàn)存
天心の思想を形にしたのが、岬に立つ六角堂です。その名の通り正六角形の建物には、景色の移ろいを眺めるための東アジアの伝統(tǒng)建築「亭子(ていし)」の構(gòu)造を用い、仏堂を思わせる如意寶珠を屋根上に設(shè)置。天心はここで瞑想や読書(shū)をしたり、時(shí)には客人に茶をもてなしたりと、思索と憩いの場(chǎng)に使いました。2011年(平成23年)に東日本大震災(zāi)による津波で流失しましたが、多くの人からの寄付によって翌年には再建。4面のガラス張りには西洋の吹きガラスを使うなど、當(dāng)時(shí)の資材を忠実に集め、中心には茶の湯のための六角形の「爐」も復(fù)活させるなど、天心がいた頃の様子をよみがえらせました。



(寫(xiě)真上) 天心邸から低い場(chǎng)所につくられた「六角堂」。短い階段も曲線を描き、歩きながら景色の変化が楽しめる趣向に。毎秋には「観月會(huì)」と銘打った展覧會(huì)が催され、現(xiàn)代アーティスト1名の作品が六角堂內(nèi)に展示される
(寫(xiě)真左下)五浦岬公園から見(jiàn)える六角堂
(寫(xiě)真右下) 波を雪に見(jiàn)立てた天心は、窓から望む巖礁の上に石燈籠を設(shè)置したとされる。現(xiàn)在の石燈籠は、六角堂の再建と同時(shí)に往時(shí)の寫(xiě)真を基に2012年(平成24年)設(shè)置したものである
1906年(明治39年)には、日本美術(shù)院の絵畫(huà)部を五浦に移転。天心の弟子たちは、五浦の海辺で精力的に制作活動(dòng)を進(jìn)め、新しい日本畫(huà)を模索。空気や光の表現(xiàn)に輪郭線を使わず、色の濃淡だけで表現(xiàn)した「朦朧體(もうろうたい)」はここから誕生しました。岡倉(cāng)天心は1913年(大正2年)、療養(yǎng)先の新潟県赤倉(cāng)で50年の生涯を終えます。天心の遺志を汲み、東京に埋葬後、長(zhǎng)屋門(mén)を出てすぐの場(chǎng)所に分骨。東京の墓地と同じ、土饅頭型の簡(jiǎn)素な丸い墓も、自然と蕓術(shù)のつながりを感じさせる天心らしい造りです。
天心が眠る五浦の墓。平櫛田中が手植えした椿が、墓所を見(jiàn)守る
![茨城大學(xué)五浦美術(shù)文化研究所/天心遺跡[現(xiàn)地から約97km]](images/article16/img12.png)