小坂鉱山事務(wù)所
鉱山(ヤマ)の記憶を語り継ぐ山里に咲いた優(yōu)美な洋館
日本最古の現(xiàn)役木造芝居小屋「康楽館」の幟はためくアカシア並木。十和田湖や八幡平にほど近いこの地で、かつて鉱産額全國一まで上りつめた小坂鉱山の歴史へと導(dǎo)く、「明治百年通り」を歩く。色づいた木々や幟がいざなう道は天高く、秋風(fēng)が心地よい。
「ここはまるで別世界。訪れる人たちは、ここだけが違う空間だと口々に言います」
そう話すのは、小坂町産業(yè)課の齋藤豊さん。「でもここの価値は、今も変わらず町民に使われ、親しまれていること。公民館のような施設(shè)と思ってもらえれば」と語る。そんな小坂鉱山事務(wù)所や康楽館に足を踏み入れる人々は、この地で何を感じ、何を思うのだろうか。そこかしこに、不思議と今も漂う明治の薫り。それは鉱山獨(dú)特の、特別な「記憶」の殘像なのだろうか。
荘厳な造りが映える小坂鉱山事務(wù)所。それは康楽館の先に悠然とそびえている。江戸末期に発見され、明治時(shí)代、近代化の息吹とともに活動(dòng)を始めた小坂鉱山。のちに日本鉱業(yè)界の父と呼ばれた大島高任やクルト?アドルフ?ネットーらの技術(shù)により繁栄するも、明治30年代、土鉱と呼ばれた鉱石が底をつき、鉱山は沈滯期を迎える。そこに日本各地から名だたる技術(shù)者たちが集まり、黒鉱と呼ばれる複雑鉱から自溶爐で金屬を分離?抽出する「黒鉱自溶製錬」が成功。それが起死回生となり、鉱山の活気が再びもたらされた。そして明治38年(1905)、繁栄のきわみに建築されたのが小坂鉱山事務(wù)所である。
正面は幅約38メートル、高さ約14メートル。まるで城を思わせるような木造3階建。ルネッサンス風(fēng)を基調(diào)としながら、どことなくエキゾチックなバルコニーには華麗な透かし彫りが施されている。外壁に連続する三角ペディメント付窓とともに、屋根のドーマーウインドウも格調(diào)高い。西洋文明が日本になだれ込んだ明治時(shí)代、鉱山に訪れた多くの人々を迎え入れた事務(wù)所は當(dāng)時(shí)、約500メートル北側(cè)に建っていた。山を越え、谷を越え、川を渡り、奧深い山里にたどり著いた技術(shù)者たちは、緑のあいだに現(xiàn)れた洋館の姿に目を見張ったに違いない。
「明治17年に払い下げを受けた藤田組が巨費(fèi)を投じて建築した事務(wù)所は、自らの力を誇示する意味もありました。西洋風(fēng)の建築は、外國の技術(shù)者たちからの影響もあったのでしょう」
齋藤さんが案內(nèi)する館內(nèi)は、その繁栄を靜かに語りかけるかのような優(yōu)雅さとともに、鉱山の記憶を刻む使命にも似た緊張感に包まれている。
厳しい掟によって守られ、堅(jiān)い絆で結(jié)ばれていた「友子」、人情芝居が繰り広げられた康楽館……。
喜びあり、悲しみあり。何よりもかたい絆で結(jié)ばれた鉱山に眠る記憶が、この地の遺産なのだろう。
rakra20007年12月號(hào)
2007年11月頃撮影

【らせん階段】玄関ホール中央に設(shè)けられたケヤキのらせん階段。ゆるやかに3階へとつづく曲線は優(yōu)美さと気品を漂わせている。

【外観】明治38年から平成9年まで現(xiàn)役事務(wù)所として使われていた。鉱山の工場(chǎng)拡張にともない小坂町に譲渡され移築。建設(shè)當(dāng)時(shí)を忠実に復(fù)元して平成13年から一般公開している。

【バルコニーの透かし彫り】藤の花と柱頭の田の字を模した透かし彫りは藤田組の象徴でもある。

【回廊】ゆがみのあるガラス窓が張られた回廊が、展示室を兼ねた部屋をめぐる。鉱山の歴史や、小坂町の今を知る場(chǎng)でもある。