【歴史散策】盛岡藩の始まりにあの人が
- 更新日:2010年05月08日
- カテゴリ:歴史
【盛岡藩初代藩主 南部信直公】
前回、南部氏のおこり光行の話から26代、鎌倉時代からいっきに
戦國時代末期まで話は飛びます。
どうやら中24代には大きな話もなく、だからといって平和でもない
のでしょうが、あまり情報がありません。
さて、中興の祖と言われているのが26代目の信直公。しかし、當
主になるには様々な障壁があったようです。
というのも彼は分家のしかも庶子で、24代當主に息子がいなかっ
た為に、養子となったという経緯があるからです。そのままでいけ
ばラッキーだね!と言う事になるのでしょうが、歴史はそうは上手
くいきません。24代當主晴政に息子が生まれてしまった???
この當時は跡継ぎ問題で暗殺などが橫行してたんですね~25代
目當主になった晴継は暴漢に襲われ亡くなっています。
これまためでたしめでたし???となるはずがこの25代當主晴継が
生まれた時點で暗殺を恐れた信直は養嗣子の座を辭退しちゃっ
ているんです。
25代目當主晴継が暗殺されたのは信直が犯人では?という説も
あるそうですが???もし殺しても、自分に當主の座が回ってくる保
証はこの時點ではなかったんですね。
何人かの相続爭いのライバルはいたものの腹心の北信愛らの支
持によりめでたく26代當主となれた信直は、加賀の前田利家に対
し豊臣政権への臣従の意思を伝えています。これが実はのちのち
効いてくるのですが。
豊臣秀吉が北條氏を破った小田原征伐の時に參陣。所領を安堵
され、秀吉が奧州仕置で奧州に遠征した際は赤穂浪士で有名な
淺野氏の祖、淺野長政と先鋒を勤めています。
しかし、信直???南部氏継嗣問題はまだ終わっていませんでした。
信直と26代を爭っていた九戸政実(くのへまさざね)が反亂を起こ
すのです。そもそもは政実ではなく弟の実親(さねちか)を擁立す
る為ではありますが、戦巧者の政実がここでは主役となります。
しかし、秀吉と手を組むっていうのはとてもとても大きな事だった
んですね。政実軍が確か5~6千人だったのに対し???秀吉軍は
6萬人を越えたとの事。しかも面々が凄い!
豊臣秀次総大將で蒲生氏郷に淺野長政、石田光成と豊臣軍で名
の知れた武將が攻めてきた!4日間持ったのは政実の凄いところ
なんでしょう。
ここまできて、信直自身が何かをしたという感じではありませんが、
しっかりと時代を読んでいたと言う事なんでしょう。確実に自分の
立場を確立しています。
秀吉の朝鮮出兵にも參加していますが、名護屋城までで朝鮮へ
は行かずに済んだようです。
奧州仕置により有名な伊達政宗と領地が隣接してしまう事となり
また、様々な諸事情もあって不來方(こずかた)と呼ばれていた盛
岡に居城を移します。
ちなみに南部藩と伊達藩の領地の決め方には巖手県民の県民
性が出ている逸話が殘っています。
南部の殿様と伊達の殿様が同時刻に城を出て落ち合った所が領
地の境目と決めたというお話です。
伊達の殿様は馬
南部の殿様は???べこ
牛で行ってしまったんですね~南部の殿様は???
あくまでも逸話で、本來は奧州仕置でと言う事ですが、今でも南部
藩と伊達藩の境は「相去(あいさり)」という地名が殘っています。
これをもって巖手県人がのんびりしているという県民性があると
言われてしまう事があるようです。
信直の政治の嗅覚は死の直前まで利いています。秀吉死後徳川
家康に近づいているのです。1599年、関が原の前夜に亡くなった
信直は戦巧者ではなかったかもしれませんが、世渡りがとても上
手い武將だったのでは?と思うのです。
=TAKE=











