幕末に國(guó)禁を冒してまで學(xué)んで、日本の近代國(guó)家の礎(chǔ)を築いた
「薩摩スチューデント」
いちき串木野市「薩摩藩英國(guó)留學(xué)生記念館」
今回は、いちき串木野市の「薩摩藩英國(guó)留學(xué)生記念館」に赴きました。
ここは薩摩藩留學(xué)生「薩摩スチューデント」が英國(guó)に旅立った場(chǎng)所です。

當(dāng)時(shí)は漁で栄えた羽島浦という漁村。
その港に佇む赤レンガの建物は、
當(dāng)時(shí)の「薩摩スチューデント」の物語(yǔ)を彷彿させてくれます。
建物に入ってすぐ右には洋風(fēng)書斎のライブラリー。
書棚には鹿児島に係わる歴史書が並んでいます。

ライブラリーの対面はおしゃれな羽島カフェ。
展示室は留學(xué)生と羽島、留學(xué)生の旅路、西歐見聞の日々、留學(xué)生その後の功績(jī)など留學(xué)生が辿ったテーマに分かれ展示されています。
1853年(嘉永6年)、鎖國(guó)を続けてきた日本は、
米海軍ペリー提督率いる黒船の來航によって開國(guó)を強(qiáng)いられます。
それから10年間、歐米列強(qiáng)の國(guó)々から不平等條約を押しつけられます。
一方、
國(guó)內(nèi)では外國(guó)を排斥しようとする、攘夷(じょうい)思想が高まります。
そんな最中、
1862年9月14日(文久2年)に、悲劇がおこりました。
「生麥?zhǔn)录工扦埂?br />
武蔵國(guó)生麥村(現(xiàn)橫浜市鶴見區(qū)生麥)にて、
時(shí)の薩摩藩主:島津久光の大名行列の前を、
馬に乗ったまま橫斷した英國(guó)人4名らを
藩士が斬りつけ殺傷させた事件です。
これに端を発し、1863年8月15日(文久3年)、
薩摩藩とイギリス艦隊(duì)との間に「薩英戦爭(zhēng)」が起きます。
そして戦爭(zhēng)で敗北した薩摩藩は、英國(guó)と講和を結(jié)びます。
なんと、その時(shí)、
薩摩藩は、英國(guó)側(cè)へ留學(xué)生の派遣を申し出たのです。
薩摩藩が、
敵対し戦った相手から、學(xué)ぼうとする行動(dòng)力には驚きです。
おそらく、この戦爭(zhēng)で薩摩藩は英國(guó)の先進(jìn)性を認(rèn)識(shí)し、
未來のために英國(guó)に學(xué)ぶべきと、実感したのでしょう。
2年後の1865年、薩摩藩は幕府の禁制を破り19名の藩士を
英國(guó)に密航留學(xué)させます。
「薩摩スチューデント」の誕生です。

藩命を受けた19名の留學(xué)生は
『大島、甑島方面へ視察に行くように』という辭令書が交付されました。
これは幕府を欺くための偽りの命だったのです。
1865年2月(元治2年)城下の新納邸を出発し、
二日かけ羽島浦(現(xiàn)いちき串木野市羽島)に到著しました。
同年4月に、羽島浦の沖合に姿を見せた英國(guó)船オースタライエン號(hào)へ
乗り込み薩摩を後にしました。
オースタライエン號(hào)は、
長(zhǎng)崎に居たトーマス?グラバーの持ち船だったようです。

4日後、香港に到著。 10日ほど滯在。
のちマドラス號(hào)でシンガポール、ペナン、ボンベイへ立寄り、
更にベナールス號(hào)に乗り換え、紅海からスエズ運(yùn)河を進(jìn)み地中海、
ジブラルタル海峽を越え、2か月後の5月にロンドンに到著しました。

19名の「薩摩スチューデント」のうち一人、大學(xué)の入學(xué)年齢に達(dá)していなかった長(zhǎng)沢 鼎(ながさわ かなめ)はスコットランドのトーマス?グラバーの実家に身を寄せ中學(xué)校へ入學(xué)し語(yǔ)學(xué)を?qū)Wびました。
うち4名の新納 久脩(にいろひさのぶ)、寺島 宗則(てらしまむねのり)、五代 友厚(ごだいともあつ)、堀 孝之(ほりたかゆき)らはヨーロッパ各地を回って國(guó)情の視察や工業(yè)機(jī)械の商談を行いました。
そのほかの14名は、ロンドン大學(xué)のユニバーシティカレッジの聴講生として歴史、科學(xué)、數(shù)學(xué)などを?qū)Wびました。

英國(guó)は當(dāng)時(shí)、産業(yè)革命を興し、
世界に名だたる工業(yè)國(guó)として繁栄を極めていました。
「薩摩スチューデント」たちは自身のテーマを決め勉強(qiáng)に勵(lì)む者、
近代化を図るための機(jī)械の商談を任された者、
ヨーロッパ諸國(guó)の情勢(shì)など見聞し、
多岐にわたり學(xué)び吸収したことでしょう。
「薩摩スチューデント」は
畠山 義成(23歳)、高見 彌一(31歳)、村橋 久成(23歳)、
東郷 愛之進(jìn)(23歳)、名越 時(shí)成(21歳)、新納 久脩(33歳)
松村 淳蔵(23歳)、中村 博愛(22歳)、朝倉(cāng) 盛明(23歳)、
町田 申四郎(18歳)、鮫島 尚信(20歳)、寺島 宗則(33歳)、
吉田 清成(20歳)、町田 清蔵(14歳)、町田 久成(27歳)、
長(zhǎng)沢 鼎(13歳)、堀 孝之(21歳)、五代 友厚(30歳)、森 有禮(18歳)、の19名。
羽島浦までは20名だったと云われています。(年齢は出港時(shí))
??????????
帰國(guó)後に活躍された方々一部ご紹介??????????
村橋 久成
戊辰戦爭(zhēng)に従軍したのち、1871年に北海道開拓事業(yè)で
開拓使麥酒醸造所(現(xiàn)サッポロビール)を設(shè)立。
長(zhǎng)沢 鼎
13歳で英國(guó)留學(xué)した後に渡米。
カリフォルニアの葡萄農(nóng)園で成功したワイン王。
畠山 義成
文部行政の擔(dān)い手と云われ、
開成學(xué)校(現(xiàn)東京大學(xué))初代校長(zhǎng)、
書籍館(現(xiàn)國(guó)立國(guó)會(huì)図書館)初代館長(zhǎng)などを歴任。
五代 友厚
大阪株式取引所、大阪商工會(huì)議所の設(shè)立。大阪の経済発展の礎(chǔ)を築く。五代はNHK朝の連続テレビ小説“あさが來た”にも登場(chǎng)していました。

19名の「薩摩スチューデント」は、
これから旅立つ未知の西洋世界に対する覚悟と、
未來の日本の役に立つという志を持ち、
命を懸け羽島浦を後にしたのでしょう。
羽島の港から水平線を望むと、そんな思いがよぎりました。
羽島港

せっかく、
いちき串木野市まで來たのだからと、味工房みそのへ移動(dòng)。
ご當(dāng)?shù)廿哎毳帷 袱蓼挨恁椹`メン」を頂きました。
鹿児島のラーメンと言えば、とんこつベースが多いのですが、
あっさり透き通った醤油スープ。
トッピングのまぐろの漬けが
スープの熱でほんのり色が変わり、中々いけます。
わさびも途中から投入して、これもまた美味い。
まぐろは、いちき串木野市の基幹産業(yè)でもあるんです。
まぐろラーメン
絶対、おススメです。
薩摩藩英國(guó)留學(xué)生記念館
鹿児島県いちき串木野市羽島4930番地
TEL 0996−35−1865
味工房みその
鹿児島県いちき串木野市北浜町4
電話:0996-32-1780
霧島高千穂リゾートランドより約100㎞(九州自動(dòng)車道経由)
寫真の撮影日 平成28年6月1日