【オーナー日記4】 阿蘇の歴史を?qū)Wぶ
- 更新日:2016年02月12日
- カテゴリ:オーナー日記4
今年は暖冬とのことだが大寒に大寒波が襲來(lái)、そこで雪が上がったあと最寄りの阿蘇市立一の宮図書(shū)館に行って「阿蘇」の由來(lái)、歴史について勉強(qiáng)することとした
「阿蘇」の由來(lái)
古くは、「古事記」の神武天皇(カムヤマトイワハレビコノミコト)の六節(jié)「タギシミミのミコトの反逆」のなかで、神武天皇の子供である神八井戸耳命(カムヤイミミノミコト)が阿蘇君(肥後國(guó)阿蘇郡にちなむ士族名)の祖であると記載されて、「阿蘇」という名が出てくる。
阿蘇という名前は「地名語(yǔ)源辭典」によると、火山や溫泉に関係した語(yǔ)で、特に「煙、湯気」を意味する南洋方面の aso、asapなどという語(yǔ)と関係があるようだ。
また、アイヌ語(yǔ) asoy-ye(穴を作っている溶巖)の略がアソとなったともいう。
一方、みんなでつくる阿蘇のオンライン百科事典である「阿蘇ペディア」によれば、アイヌ語(yǔ)の「火を吐く山」という意味の言葉から來(lái)ているともいえる、としている。
また、阿蘇一の宮町史には『日本書(shū)紀(jì)の「景行天皇記」中に、景行天皇18年(6月16日~六月の丙子(ひのえねのひ)に)
《阿蘇の國(guó)に來(lái)られた。その國(guó)の野原はひろく、遠(yuǎn)くまで人が住んでいる気配はまったく無(wú)い。そこで天皇はおっしゃられた。「この國(guó)には人は居ないのだろうか」そのとき、阿蘇都彥(アソツヒコ)?阿蘇都媛(アソツヒメ)の二神が人の姿になって現(xiàn)れ「われら二人あり、何ぞ人無(wú)しとおっしゃられるのです」と言われた。》
それゆえ阿蘇という呼び名が生まれた』との記載がある。
阿蘇と神話(huà)と阿蘇神社
宮地駅の案內(nèi)板に駅名の由來(lái)として『阿蘇開(kāi)拓の神、健磐龍命(タケイワタツノミコト)がこの地に宮床を定められたので宮地という地名となり駅名となった』と書(shū)かれていますが、健磐龍命(タケイワタツノミコト)とは誰(shuí)なのか
823年朝廷が健磐龍命(タケイワタツノミコト)に従四位下の位を贈(zèng)り、、、、」と日本紀(jì)略(平安時(shí)代に編纂された歴史書(shū))に記載されているのが恐らく歴史書(shū)で初めて健磐龍命(タケイワタツノミコト)の記述が出てくる。
一方、
その先祖は神武天皇の皇子神八井耳(かむやいみみ)命とされ、第二代天皇の綏靖天皇の同母兄にあたるそうです。その後、神八井耳命の子健磐龍命(タケイワタツノミコト=神武天皇の孫)が阿蘇に封じられ、命は阿蘇都彥と稱(chēng)して阿蘇に土著し、その子速瓶玉(はやみかたま)命が阿蘇國(guó)造に任ぜられ阿蘇の姓を賜ったのだとか。
神武天皇は孫の健磐龍命(タケイワタツノミコト)に九州を収めるように命じ、健磐龍命(タケイワタツノミコト)は阿蘇に進(jìn)みやがて阿蘇開(kāi)拓の神となる。
その健磐龍命(タケイワタツノミコト)を主神として12神を祀っているのが阿蘇神社で古代から阿蘇神社は肥後國(guó)一の宮といわれている。
因みに一の宮の町名は阿蘇神社が『肥後の國(guó)一の宮』であったことに由來(lái)する。宮地の名も一帯が神社の神域であったことから起こったといわれています。
古代から阿蘇山は火山として畏れられ自然と神としての信仰が芽生えたところに阿蘇の開(kāi)拓の祖の伝説が融合して阿蘇神社と軸とする信仰が深まったというのが私の拙い理解です。
考えれば當(dāng)たり前の話(huà)ですが、阿蘇は神話(huà)の國(guó)ですから、方々に歴史的な神社があるのに対し、寺が圧倒的に少ないことに気が付きました。
※市立一の宮図書(shū)館???當(dāng)リゾートより約1.6㎞
※阿蘇神社???當(dāng)リゾートより約2.3km
※上記寫(xiě)真は全て平成28年1月撮影
※オーナー日記は當(dāng)社の依頼により、オーナー様の日々の生活の情報(bào)をいただき、當(dāng)社スタッフが更新しています。